枕石漱流

第5章 奥入瀬川水系の疏水

はじめに

 疏水とは他の水源から水を引く目的で造られた水路のことです。上述した4つの発電所に送水するために造られたトンネルも疏水になりますが、ここでは灌漑用に利用される農業用水路について述べたいと思います。

 奥入瀬川水系の疏水で最もよく知られているものは稲生川ですが、この用水路は不毛の荒野である三本木原(さんぼんぎはら)台地を開墾・開田するために造られたものですので、最初にこの台地について説明し、次いで稲生川、三本木幹線用水路、並びにそれらの支線用水路について述べます。続いて、奥入瀬川から取水する法量堰、十二里堰、赤石堰、奥瀬堰、新田堰、相坂平堰、赤沼堰、沢田下川原堰、南川原堰、大光寺堰、古渕堰、下田堰について説明し、最後に奥入瀬川の支川から取水する大畑野堰、太田川原堰、小増沢堰、切田後平堰、岩船堰、種原堰について述べたいと思います。なお、法量堰、十二里堰、赤石堰、沢田下川原堰、太田川原堰、切田後平堰、岩船堰は、本書で使った仮称です。

1.三本木原台地

 三本木原台地は、十和田市を中心として、六戸町、三沢市、おいらせ町の二市二町にまたがる南北10km、東西32kmの平坦な台地です。この台地は、十和田火山の噴火による火砕流堆積物や火山灰堆積物などで覆われているため保水力が乏しく、井戸を掘っても水は出ず、樹木も生えない荒涼とした平原でした。台地の南縁には奥入瀬川が流れていますが、川面と台地の標高差は30mにも及んでいること、上流から用水路で水を引くにも天狗山や鞍出山が川岸まで迫っており困難であることなどから、江戸時代末期までこの台地は不毛の地として放置されていました。

 江戸時代初期に整備された奥州街道は、今の十和田市を南北に通っていましたが、三本木原台地には宿駅はなく、奥入瀬川の南岸に位置する藤島と伝法寺に宿駅が整備されていました。江戸時代に、奥州街道には奥入瀬川に架かる橋はなく、「渡船場」で渡し舟を利用していました。明治9年(1876年)、明治天皇の東北巡幸の折りに初めて橋が架けられ、「御幸橋」(写真5-1-1)と名付けられました。

 奥州街道沿いに整備された一里塚が十和田市には4つあります。南から、「伝法寺の一里塚」、「一本木の一里塚」、「真登地の一里塚」、「池ノ平の一里塚」(写真5-1-2)とよばれ、現在もその姿を見ることができます。

 一本木の一里塚の名は、江戸時代に一里塚に植えられた一本の欅(けやき)の木に由来します。現在、その欅の大木は切り取られてなく、代わりに2本の若い欅が育っています(写真5-1-3)。「一本木の一里塚」周辺は「一本木」とよばれ、現在、「一本木町内」として名を留めています。

 奥州街道沿いの、現在の十和田市元町の北にある大清水神社の境内には清水がこんこんと湧き出て、この湧き水はこの地域の人々や旅人のオアシスになっていました(写真5-1-4)。境内には根元から三本に分かれたシロタモの大木があり、遠くからもよく見えたことから、人々はこの木を三本木(さんぼんぎ)とよび、また、この地域を三本木、台地を三本木平とよぶようになったといわれています。その後、台地は三本木原といわれ、現在は三本木原台地とよばれています。正保(しょうほう)4年(1647年)の「南部領惣絵図」や寛文5年(1665年)の「寛文三本木村絵図」に「三本木村」の記載があります。

 シロタモの和名はヤマトアオダモで、モクセイ科トネリコ属の雌雄異株の落葉広葉樹です。クスノキ科シロダモ属の常緑広葉樹シロダモとは異なります。ヤマトアオダモと同属のアオダモは野球のバットの材料に利用されています。

写真5-1-1 県道145号線の御幸橋
写真5-1-2 池ノ平の一里塚
写真5-1-3 一本木の一里塚
写真5-1-4 大清水神社境内の湧き水とシロタモの木

2.稲生川

 人工河川稲生川は、法量下川原で奥入瀬川に設置された頭首工から取水し(写真5-2-1)、天狗山や鞍出山の穴堰を通り、三本木原台地を東方に流れ、おいらせ町百石海岸で太平洋に注いでいます。頭首工から太平洋岸までの用水路全長は約40kmにも及びます。平成17年に農林水産省が実施した日本疏水百選に1位で選ばれています。

 安政2年(1855年)、盛岡藩士新渡戸 傳(つとう)・十次郎親子は、奥入瀬川から三本木原台地に水を引く工事に着手し、安政6年(1859年)5月4日、4年の歳月をかけて通水を成し遂げました。盛岡藩主南部利剛(としひさ)により、用水路は「稲生川」、稲生川に架けられた奥州街道の橋は「稲生橋」と命名されました(写真5-2-2)。

 天狗山穴堰(1,620m)と鞍出山穴堰(2,540m)という2つのトンネルを掘ることが最大の難関工事でした。取水口から三本木村までの用水路の延長は約10.3kmでした。用水路は途中、中里川(写真5-2-3)と熊ノ沢川(写真5-2-4)を横断しなければなりませんが、いずれも川の下をサイフォンで横断しています。

 通水翌年の1860年に、稲生橋付近の稲生川右岸の水田で初めて米の作付けが行なわれ、米45俵が収穫されました。その地域は「初田」とよばれ、現在も「初田町内」として名を留めています。

 その後、稲生川は三本木村から太平洋岸まで延長され、明治39年頃までに、法量取水口から百石海岸に至る約40kmの幹線用水路が完成しました。

写真5-2-1 稲生川頭首工
写真5-2-2 昭和初期の稲生川と稲生橋(十和田市称徳館所蔵)
写真5-2-3 中里川をサイフォンで横断する稲生川(中里川は写真中央を右から左へ流れるが水面は見えていない)
写真5-2-4 熊ノ沢川(右)をサイフォンで横断する稲生川(左)

3.三本木幹線用水路

 開墾・開田が進むにつれ、当初の稲生川の水量では足りなくなったため、昭和12年に始まった国営三本木原開墾事業の一環として三本木幹線用水路の整備が行なわれました。用水路は稲生川頭首工より1.2km程上流にある法量前川原の頭首工(写真5-3-1)から取水し、段ノ台トンネルと鞍出山トンネルを通り、京の館付近(三本木佐井幅)で稲生川と合流させるもので、昭和19年に完成しました。用水路は中里川の下をサイフォンで、熊ノ沢川の上を水路橋(写真5-3-2)で横断しています。

 昭和30年に上述した法量発電所が運転を開始し、法量ダムから取水し、発電に利用した水を三本木幹線用水路に流すようになったため、それまで利用していた頭首工は、予備取水口となりました(写真5-3-3)。開墾事業は昭和41年に完工しています。

 三本木幹線用水路は、京の館付近で稲生川より10m程標高が高いため、平成26年、合流地点に稲生川小水力発電所(最大出力182kW)が整備されました(写真5-3-4)。

写真5-3-1 三本木幹線用水路頭首工(現在は予備取水口)
写真5-3-2 熊ノ沢川の上を水路橋で横断する三本木幹線用水路
写真5-3-3 三本木幹線用水路取水口(右は法量発電所からの水、左は三本木幹線用水路頭首工からの導水路)
写真5-3-4 稲生川小水力発電所(発電後の三本木幹線用水路の水は稲生川(左)と合流。右手の土手には元村用水路が流れています。)

4.稲生川および三本木幹線用水路の支線用水路

 稲生川および三本木幹線用水路からは多くの支線用水路が引かれています。ここでは十和田市に分布する6つの主要支線用水路(深持用水路、元村用水路、切田用水路、渋沢用水路、一本木沢用水路、沖山用水路)について紹介します。これらのうち切田用水路は元村用水路から分水後、稲生川より南側の三本木原台地を流れますが、それ以外の用水路は稲生川より北側の三本木原台地を流れます。

4.1 深持用水路

 深持用水路は稲生川小水力発電所より1.3km程上流で、三本木幹線用水路から分水します(写真5-4-1-1)。その受益地は深持(写真5-4-1-2)と洞内に広く亘ります。

写真5-4-1-1 三本木幹線用水路(手前)から分水する深持用水路(奥)
写真5-4-1-2 鯉艸郷付近を流れる深持用水路

4.2 元村用水路

 元村用水路(写真5-4-2-1)は、上記発電所で三本木幹線用水路から分水し、その受益地は、深持梨ノ木平(なしのきたい)・佐々木平・南平(みなみたい、写真5-4-2-2)・長根尻、三本木千歳森(せんざいもり)・間遠地(まとち)、洞内後野(うしろの)・井戸頭(いどがしら)などです。

写真5-4-2-1 稲生川(右)と並走する元村用水路
写真5-4-2-2 甲東中学校北側を流れる元村用水路

4.3 切田用水路

 切田用水路は、深持梨ノ木平で元村用水路から分水し、水路橋で稲生川の上を横断します(写真5-4-3-1)。その受益地は、三本木佐井幅(さいはば)・本金崎・西金崎・並木西・西小稲(にしこいな)、赤沼下平(しもたい、写真5-4-3-2)、相坂白上(おおさかしらうえ)などです。

写真5-4-3-1 稲生川(奥)と立体交差する切田用水路(手前)
写真5-4-3-2 赤沼下平を流れる切田用水路支線

4.4 渋沢用水路

 渋沢用水路は、十和田市立東小学校そばで稲生川から分水し(写真5-4-4-1)、洞内樋口や立崎(写真5-4-4-2)を流れ、立崎小沼袋で砂土路川に流入します。

写真5-4-4-1 渋沢用水路の取水口
写真5-4-4-2 立崎を流れる渋沢用水路

4.5 一本木沢用水路

 一本木沢用水路は、十和田市東コミュニティセンター近くの一本木沢揚水機場(写真5-4-5-1)で稲生川から揚水し、青森県立十和田工業高校より北側の三本木下平・一本木沢(写真5-4-5-2)、八斗沢、相坂高清水などが受益地になっています。

写真5-4-5-1 一本木沢揚水機場
写真5-4-5-2 三本木一本木沢を流れる一本木沢用水路(欅のそばに十和田湖決壊による大洪水で流されてきた巨礫が見える)

4.6 一本木沢ビオトープ

 一本木沢揚水機場から500m程東方の稲生川左岸に、一本木沢ビオトープがあります(写真5-4-6-15-4-6-2)。もとは昭和12年(1937年)から始まった国営三本木原開墾事業による稲生川工事で、高清水工区に盛土をするために土を取った場所に稲生川の水を溜めた「ため池」でしたが、池とその周辺が平成16年(2004年)に多様な野生生物が生息できる空間「ビオトープ」に生まれ変わりました。子どもたちの自然体験学習や地域住民の自然観察などに利用されています。

写真5-4-6-1 一本木沢ビオトープ
写真5-4-6-2 ビオトープ傍の稲生川

4.7 沖山用水路

 沖山用水路は、十和田市と六戸町の境界付近(十和田市立高清水小学校から300m程南側)で稲生川から分水し(写真5-4-7-1)、相坂高清水(写真5-4-7-2)や八斗沢、大沢田、六戸町の折茂(おりも)や犬落瀬(いぬおとせ)などが受益地になっています。

 以上述べたように、不毛の原野三本木原台地は、稲生川と三本木幹線用水路、並びにそれらの支線用水路の整備により広大な水田地帯に生まれ変わりました。三本木原は、福島県矢吹町の矢吹ケ原、宮崎県川南町(かわみなみまち)の川南原と並んで日本三大開拓地になっています。

写真5-4-7-1 沖山用水路の取水口
写真5-4-7-2 相坂高清水を流れる沖山用水路

5.法量堰

 法量堰(仮称)は、奥入瀬川の水を法量焼山の頭首工(写真5-5-1)から取水し、法量尻貝下までは陸堰を流れます。途中、淵沢川を水路橋で横断します(写真5-5-2)。尻貝下から漆畑までは奥入瀬川に沿うように山中の穴堰を流れ、漆畑からは再び陸堰を流れます。受益地は法量渕瀬・尻貝下・漆畑・家ノ前(写真5-5-3)・家ノ脇・下川原など奥入瀬川左岸地区です。

写真5-5-1 法量堰頭首工
写真5-5-2 淵沢川を水路橋で横断する法量堰
写真5-5-3 法量家ノ前の法量発電所そばを流れる法量堰

6.十二里堰

 十二里堰(仮称)は、奥入瀬川の水を法量片貝沢の頭首工から取水し(写真5-6-1)、法量川端(写真5-6-2)・小倉川原などが受益地になっています。

写真5-6-1 十二里堰頭首工
写真5-6-2 法量川端を流れる十二里堰

7.赤石堰

 赤石堰(仮称)は法量ダムを頭首工とし(写真5-7-1)、奥入瀬川右岸の奥瀬赤石(写真5-7-2)が主な受益地になっています。法量ダムについては、第4章奥入瀬川水系の水力発電所「4.法量発電所」を参照して下さい。

写真5-7-1 赤石堰頭首工(法量ダム)
写真5-7-2 奥瀬赤石を流れる赤石堰

8.奥瀬堰

 奥瀬堰の前身である沼田堰の開削は、文久元年(1861年)に始まり、明治26年(1893年)に奥瀬堰として拡大されました。奥瀬堰は、奥入瀬川の水を市道百目木(どめき)赤石線百目木橋より200m程下流にある奥瀬赤石の頭首工(写真5-8-1)から取水し、奥瀬北向・中通・下山を通り、奥瀬生内で一旦生内川と合流します(第3章十和田市を流れる河川「4.4生内川」写真3-4-4-3を参照)。その後、合流地点から100m程下流の沢田水尻山の頭首工(写真5-8-2)から取水し、水尻山から長谷地(ながやち)への隧道(トンネルのこと)を通り、長谷地から東方の沢田地域に分水されます。

 奥瀬堰は生内川に流入する前に、奥瀬北向で北向川(写真5-8-3)と、奥瀬中通で片淵川(写真5-8-4)とそれぞれ水路橋で立体交差しています。

 奥瀬堰は、第3章十和田市を流れる河川「4.6種井沢川」で述べたように、沢田音道と番屋で種井沢川と合流しています。

写真5-8-1 奥瀬堰頭首工
写真5-8-2 生内川の頭首工
写真5-8-3 北向川(下)と立体交差
写真5-8-4 片淵川(下)と立体交差

9.新田堰

 文政11年(1828年)頃、齋藤季編は奥入瀬川の水を法量川口に引くために、5年の歳月をかけて川に接する天狗山の岩腹を幅1.8m、高さ3m、長さ360m程くり抜いて石渠(せききょ、渠とは溝のこと)を造ったと伝えられています(写真5-9-1)。新田堰は、中里川と奥入瀬川の合流地点から200m程下流で取水し(写真5-9-2)、石渠を通り、その受益地は新田、川口平、川口、川口下などです。

写真5-9-1 齋藤季編石渠成功碑
写真5-9-2 新田堰頭首工

10.相坂平堰

 相坂平堰は、大正12年7月から大正14年6月にかけて開削された全長約14kmの用水路です。熊ノ沢川と奥入瀬川の合流地点から200m程下流の三本木倉手から取水し(写真5-10-1)、三本木矢神・中掫、赤沼沼袋・下平(写真5-10-2)、相坂白上を通り、相坂平に至ります。相坂平とは、相坂小林(写真5-10-3)・相坂・高見・六日町山・箕輪平や三本木稲吉・野崎(写真5-10-4)などに広がる平坦地を指します。

 相坂平堰は「一本木川」ともよばれていますが、これは、本章「1.三本木原台地」で述べた「一本木の一里塚」周辺が「一本木」(相坂白上の一部)とよばれ、相坂平堰がそこを流れているからです。

写真5-10-1 相坂平堰頭首工(熊ノ沢川(手前)と奥入瀬川(右手)の合流地点(奥に頭首工が見える))
写真5-10-2 赤沼下平の隧道から出た相坂平堰
写真5-10-3 相坂小林を流れる相坂平堰(右遠くに八甲田を望む)
写真5-10-4 三本木野崎を流れる相坂平堰

11.赤沼堰

 赤沼堰は、江戸時代「元和の時代(1615~1624年)」に開削されたと伝えられる非常に歴史のある用水路です。赤沼堰は、奥入瀬川の水を国道102号線広瀬橋から150m程下流の頭首工から取水し(写真5-11-1)、奥入瀬川左岸の赤沼(写真5-11-2)、切田(写真5-11-3)、相坂(写真5-11-4)の川原地区や向切田地区などが、受益地になっています。

写真5-11-1 赤沼堰頭首工
写真5-11-2 赤沼芦川原を流れる赤沼堰
写真5-11-3 切田上川原を流れる赤沼堰支線
写真5-11-4 相坂向切田を流れる赤沼堰支線

12.沢田下川原堰

 沢田下川原堰(仮称)は、奥入瀬川の水を上述した赤沼堰頭首工から700m程下流の頭首工から取水し(写真5-12-1)、その受益地は沢田下川原(写真5-12-2)・太田川原・篠田地です。

写真5-12-1 沢田下川原堰頭首工
写真5-12-2 沢田下川原を流れる下川原堰

13.南川原堰

 南川原堰は、奥入瀬川の水を沢田篠田地の頭首工(写真5-13-1)から取水し、川岸に沿って南東方向に流れ(写真5-13-2)、切田南川原で分水します(写真5-13-3)。途中、篠田地川(写真5-13-1)と種井沢川(写真5-13-4)の下をサイフォンで横断しています。

写真5-13-1 南川原堰頭首工(南川原堰は奥入瀬川(手前)に流入する篠田地川(左奥)の下をサイフォンで横断します)
写真5-13-2 昭和新橋付近を流れる南川原堰
写真5-13-3 切田南川原の分水工
写真5-13-4 種井沢川(手前)の下をサイフォンで横断する南川原堰(奥)

14.大光寺堰

 盛岡藩五戸御給人藤田源内は、安政3年(1856年)に大光寺堰の開削工事に着手し、明治元年(1868年)に源内の長子時治により完成しました。用水路の名は御新田係大光寺悦衛門に由来します。大光寺堰は、新渡戸 傳・十次郎親子が完成させた稲生川とほぼ同時期に着工されています。

 大光寺堰は、奥入瀬川の水を切田上川原の頭首工(写真5-14-1)から取水し、切田(向切田・川原・下川原)・相坂(写真5-14-2)、六戸町の折茂(写真5-14-3)・犬落瀬を経由して、おいらせ町新敷(にしき)に至る延長17kmの用水路です。大光寺堰は、畑刈川(第3章十和田市を流れる河川「3.4 畑刈川」写真3-3-4-2を参照)、今熊川、および犬落瀬川(写真5-14-4)を水路橋で横断しています。

写真5-14-1 大光寺堰頭首工
写真5-14-2 相坂六日町を流れる大光寺堰
写真5-14-3 六戸町折茂後谷地を流れる大光寺堰
写真5-14-4 六戸町犬落瀬前谷地で犬落瀬川(左)と立体交差する大光寺堰

15.古渕堰

 古渕堰は、奥入瀬川の水を藤島古渕川原の頭首工(写真5-15-1)より取水し、藤島の奥入瀬川南岸沿いの平坦地(写真5-15-24)を受益地とする用水路です。頭首工には、サケやサクラマスが遡上できる魚道が整備されています。

写真5-15-1 古渕堰頭首工
写真5-15-2 藤島小山家ノ上の分水工
写真5-15-3 藤島蒼前川原を流れる古渕堰
写真5-15-4 藤島川原田を流れる古渕堰支線

16.下田堰

 下田堰は、奥入瀬川の水を御幸橋の70m程下流にある藤島狐森の頭首工から取水し(写真5-16-1)、伝法寺の寺山隧道を抜け、伝法寺本町川原を通り(写真5-16-2)、後藤川を水路橋で横断します(写真5-16-3)。主な受益地は、六戸町(写真5-16-4)およびおいらせ町の奥入瀬川南岸地域です。頭首工には、サケやサクラマスが遡上できる魚道が整備されています。

写真5-16-1 下田堰頭首工(上流に御幸橋が見える)
写真5-16-2 伝法寺本町川原を流れる下田堰
写真5-16-3 後藤川の上を水路橋で横断する下田堰
写真5-16-4 六戸町社会福祉法人メープルのそばを流れる下田堰

17.大畑野堰

 大畑野堰は、大正9年から大正12年にかけて開削された東西約4kmの用水路で、色内川の水を、奥瀬栃久保の色内橋(第3章十和田市を流れる河川「4.1色内川」を参照)より100m程下流に設置された頭首工(写真5-17-1)から取水します。その受益地は奥瀬栃久保(写真5-17-2)・大畑野(写真5-17-3)・立石(写真5-17-4)・赤石に亘ります。

写真5-17-1 大畑野堰頭首工(奥が色内川)
写真5-17-2 奥瀬栃久保を流れる大畑野堰
写真5-17-3 奥瀬大畑野を流れる大畑野堰
写真5-17-4 奥瀬立石を流れる大畑野堰

18.太田川原堰

 太田川原堰(仮称)は、生内川と奥入瀬川が合流する地点から200m程上流の生内川の頭首工から取水し(写真5-18-1)、太田川原親水広場(写真5-18-2)を通り、沢田太田川原(写真5-18-3)・下川原(写真5-18-4)・篠田地が受益地になっています。

写真5-18-1 太田川原堰頭首工(右が生内川)
写真5-18-2 沢田太田川原親水広場
写真5-18-3 沢田太田川原を流れる太田川原堰
写真5-18-4 沢田下川原を流れる太田川原堰

19.小増沢堰

 小増沢堰は、澤目治左衛門らにより文政7年(1824年)~文政9年(1826年)にかけて、熊ノ沢川の二次支川小増沢の水を深持や板の沢に引くために造られました(写真5-19-15-19-2)。小増沢から取水し、途中穴堰を掘り、山麓の中腹を開削して、深持を通り(写真5-19-3)、板の沢地区に至ります(全長12.3km)。稲生川通水の33年前に完成していることは驚くべきことです。

写真5-19-1 深持秋葉山神社の小増沢堰石碑
写真5-19-2 小増沢堰石碑説明塔
写真5-19-3 深持興禅寺そばを流れる小増沢堰

20.切田後平堰

 切田後平(きりだうしろたい)堰(仮称)は、切田川の水を切田西大沼平の頭首工(写真5-20-1)から取水し、切田岩船・豊川・印(しるし)・上後平(かみうしろたい)(写真5-20-2)・下後平(しもうしろたい)(写真5-20-3)を経由して、姫居(ひめおり)あるいは平林(たいらばやし)(写真5-20-4)に至る用水路です。

写真5-20-1 切田後平堰頭首工(左が切田川)
写真5-20-2 切田上後平を流れる切田後平堰
写真5-20-3 切田下後平を流れる切田後平堰
写真5-20-4 切田平林を流れる切田後平堰

21.岩船堰

 岩船堰(仮称)は、切田川の水を切田岩船の頭首工から取水し(写真5-21-1)、切田繁見(しげみ)・豊川(写真5-21-2)・印・程野・関口・久保を経由し、半在池(はんざいけ)に至る用水路です。

写真5-21-1 岩船堰頭首工(切田川は水門の向こう側を右から左に流れています)
写真5-21-2 切田豊川を流れる岩船堰

22.種原堰

 種原堰は、後藤川の水を県道168号線種原橋から200m程下流の米田渡場(まいたわたりば)の頭首工(写真5-22-1)から取水し、米田段ノ前・一本松(写真5-22-2)・内田(写真5-22-3)、伝法寺瀬張坂・八幡川原、六戸町小平小平(写真5-22-4)などの後藤川右岸地域を流れ、六戸町鶴喰若宮下で下田堰と合流しています。

写真5-22-1 種原堰頭首工
写真5-22-2 米田一本松を流れる種原堰
写真5-22-3 米田内田を流れる種原堰
写真5-22-4 六戸町小平小平を流れる種原堰

参考文献

高野春男 「不毛の三本木原台地を美田美畑に変えた先人たちの偉業―人工河川「稲生川」の歴史―」 農業農村工学会誌 76:505-508, 2008

嶋 栄吉ら 「稲生川用水に学ぶ三本木開拓の精神と技術」 農業農村工学会誌 77:800-801, 2009

宮川潤孝ら 「三本木幹線用水路急流工の落差を活用した小水力発電」 農業農村工学会誌 84:218-219, 2016

十和田市立新渡戸記念館ボランティアKyosokyodo(共創郷土) 「稲生川の魅力を歩く」 2013

相坂平土地改良区 「相坂平通水50周年記念:開田の苦闘史」 1975

丹治 肇 「奥入瀬川南岸下田堰(藤坂頭首工)―青森県十和田市・おいらせ町―」 農業農村工学会誌 83:149-150, 2015

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