1.三本木原台地
三本木原台地は、十和田市を中心として、六戸町、三沢市、おいらせ町の二市二町にまたがる南北10km、東西32kmの平坦な台地です。この台地は、十和田火山の噴火による火砕流堆積物や火山灰堆積物などで覆われているため保水力が乏しく、井戸を掘っても水は出ず、樹木も生えない荒涼とした平原でした。台地の南縁には奥入瀬川が流れていますが、川面と台地の標高差は30mにも及んでいること、上流から用水路で水を引くにも天狗山や鞍出山が川岸まで迫っており困難であることなどから、江戸時代末期までこの台地は不毛の地として放置されていました。
江戸時代初期に整備された奥州街道は、今の十和田市を南北に通っていましたが、三本木原台地には宿駅はなく、奥入瀬川の南岸に位置する藤島と伝法寺に宿駅が整備されていました。江戸時代に、奥州街道には奥入瀬川に架かる橋はなく、「渡船場」で渡し舟を利用していました。明治9年(1876年)、明治天皇の東北巡幸の折に初めて橋が架けられ、「御幸橋」(写真5-1-1)と名付けられました。
奥州街道沿いに整備された一里塚が十和田市には4つあります。南から、「伝法寺の一里塚」、「一本木の一里塚」、「真登地の一里塚」、「池ノ平の一里塚」(写真5-1-2)とよばれ、現在もその姿を見ることができます。
一本木の一里塚の名は、江戸時代に一里塚に植えられた一本の欅(けやき)の木に由来します。現在、その欅の大木は切り取られてなく、代わりに2本の若い欅が育っています(写真5-1-3)。「一本木の一里塚」周辺は「一本木」とよばれ、現在、「一本木町内」として名を留めています。
奥州街道沿いの、現在の十和田市元町の北にある大清水神社の境内には清水がこんこんと湧き出て、この湧き水はこの地域の人々や旅人のオアシスになっていました(写真5-1-4)。境内には根元から三本に分かれたシロタモの大木があり、遠くからもよく見えたことから、人々はこの木を三本木(さんぼんぎ)とよび、また、この地域を三本木、台地を三本木平とよぶようになったといわれています。その後、台地は三本木原といわれ、現在は三本木原台地とよばれています。正保(しょうほう)4年(1647年)の「南部領惣絵図」や寛文5年(1665年)の「寛文三本木村絵図」に「三本木村」の記載があります。
シロタモの和名はヤマトアオダモで、モクセイ科トネリコ属の雌雄異株の落葉広葉樹です。クスノキ科シロダモ属の常緑広葉樹シロダモとは異なります。ヤマトアオダモと同属のアオダモは野球のバットの材料に利用されています。
2.稲生川
人工河川稲生川は、法量下川原で奥入瀬川に設置された頭首工から取水し(写真5-2-1)、天狗山や鞍出山の穴堰を通り、三本木原台地を東方に流れ、おいらせ町百石海岸で太平洋に注いでいます。頭首工から太平洋岸までの用水路全長は約40kmにも及びます。平成17年に農林水産省が実施した日本疏水百選に1位で選ばれています。
安政2年(1855年)、盛岡藩士新渡戸 傳(つとう)・十次郎親子は、奥入瀬川から三本木原台地に水を引く工事に着手し、安政6年(1859年)5月4日、4年の歳月をかけて通水を成し遂げました。盛岡藩主南部利剛(としひさ)により、用水路は「稲生川」、稲生川に架けられた奥州街道の橋は「稲生橋」と命名されました(写真5-2-2)。
天狗山穴堰(1,620m)と鞍出山穴堰(2,540m)という2つのトンネルを掘ることが最大の難関工事でした。取水口から三本木村までの用水路の延長は約10.3kmでした。用水路は途中、中里川(写真5-2-3)と熊ノ沢川(写真5-2-4)を横断しなければなりませんが、いずれも川の下をサイフォンで横断しています。
通水翌年の1860年に、稲生橋付近の稲生川右岸の水田で初めて米の作付けが行なわれ、米45俵が収穫されました。その地域は「初田」とよばれ、現在も「初田町内」として名を留めています。
その後、稲生川は三本木村から太平洋岸まで延長され、明治39年頃までに、法量取水口から百石海岸に至る約40kmの幹線用水路が完成しました。
3.三本木幹線用水路
開墾・開田が進むにつれ、当初の稲生川の水量では足りなくなったため、昭和12年に始まった国営三本木原開墾事業の一環として三本木幹線用水路の整備が行なわれました。用水路は稲生川頭首工より1.2km程上流にある法量前川原の頭首工(写真5-3-1)から取水し、段ノ台トンネルと鞍出山トンネルを通り、京の館付近(三本木佐井幅)で稲生川と合流させるもので、昭和19年に完成しました。用水路は中里川の下をサイフォンで、熊ノ沢川の上を水路橋(写真5-3-2)で横断しています。
昭和30年に上述した法量発電所が運転を開始し、法量ダムから取水し、発電に利用した水を三本木幹線用水路に流すようになったため、それまで利用していた頭首工は、予備取水口となりました(写真5-3-3)。開墾事業は昭和41年に完工しています。
三本木幹線用水路は、京の館付近で稲生川より10m程標高が高いため、平成26年、合流地点に稲生川小水力発電所(最大出力182kW)が整備されました(写真5-3-4)。
4.稲生川および三本木幹線用水路の支線用水路
4.1 深持用水路
深持用水路は稲生川小水力発電所より1.3km程上流で、三本木幹線用水路から分水します(写真5-4-1-1)。その受益地は深持(写真5-4-1-2)と洞内に広く亘ります。洞内家ノ向(いえのむかい)で森田隧道(仮称)に入り(写真5-4-1-3)、豊良川の上を横断して、大沢田笹舘で地上に出ます(写真5-4-1-4)。笹舘からは有信山(ありのぶやま)用水路となり、大沢田笹舘・北野・芋久保(いもくぼ)・堤沢・下道(したみち)などが受益地になっています。
4.2 元村用水路
4.3 切田用水路
4.4 渋沢用水路
4.5 牛鍵用水路
4.6 一本木沢用水路
4.7 一本木沢ビオトープ
4.8 沖山用水路
5.法量堰
6.十二里堰
7.赤石堰
赤石堰(仮称)は法量ダムを頭首工とし(写真5-7-1)、奥入瀬川右岸の奥瀬赤石(写真5-7-2, 5-7-3)が主な受益地になっています。法量ダムについては、第4章奥入瀬川水系の水力発電所「4.法量発電所」を参照して下さい。
8.奥瀬堰
奥瀬堰の前身である沼田堰の開削は、文久元年(1861年)に始まり、明治26年(1893年)に奥瀬堰として拡大されました。奥瀬堰は、奥入瀬川の水を市道百目木(どめき)赤石線百目木橋より200m程下流にある奥瀬赤石の頭首工(写真5-8-1)から取水し、奥瀬北向・中通・下山を通り、奥瀬生内で一旦生内川と合流します(第3章十和田市を流れる河川「4.4生内川」写真3-4-4-3を参照)。その後、合流地点から100m程下流の沢田水尻山の頭首工(写真5-8-2)から取水し、水尻山から長谷地(ながやち)への隧道(トンネルのこと)を通り、長谷地から東方の沢田地域に分水されます。
奥瀬堰は生内川に流入する前に、奥瀬北向で北向川(写真5-8-3)と、奥瀬中通で片淵川(写真5-8-4)とそれぞれ水路橋で立体交差しています。
奥瀬堰は、第3章十和田市を流れる河川「4.6種井沢川」で述べたように、沢田音道と番屋で種井沢川と合流しています。
9.新田堰
文政11年(1828年)頃、齋藤季編は奥入瀬川の水を法量川口に引くために、5年の歳月をかけて川に接する天狗山の岩腹を幅1.8m、高さ3m、長さ360m程くり抜いて石渠(せききょ、渠とは溝のこと)を造ったと伝えられています(写真5-9-1)。新田堰は、中里川と奥入瀬川の合流地点から200m程下流で取水し(写真5-9-2)、石渠を通り、その受益地は法量新田(写真5-9-3)・川口平・川口(写真5-9-4)・川口下などです。
10.相坂平堰
相坂平堰は、大正12年7月から大正14年6月にかけて開削された全長約14kmの用水路です。熊ノ沢川と奥入瀬川の合流地点から200m程下流の三本木倉手から取水し(写真5-10-1)、三本木矢神・中掫、赤沼沼袋・下平(写真5-10-2)、相坂白上を通り、相坂平に至ります。相坂平とは、相坂小林(写真5-10-3)・相坂・高見・六日町山・箕輪平や三本木稲吉・野崎(写真5-10-4)などに広がる平坦地を指します。
相坂平堰は「一本木川」ともよばれていますが、これは、本章「1.三本木原台地」で述べた「一本木の一里塚」周辺が「一本木」(相坂白上の一部)とよばれ、相坂平堰がそこを流れているからです。
11.赤沼堰
12.沢田下川原堰
13.南川原堰
14.大光寺堰
盛岡藩五戸御給人藤田源内は、安政3年(1856年)に大光寺堰の開削工事に着手し、明治元年(1868年)に源内の長子時治により完成しました。用水路の名は御新田係大光寺悦衛門に由来します。大光寺堰は、新渡戸 傳・十次郎親子が完成させた稲生川とほぼ同時期に着工されています。
大光寺堰は、奥入瀬川の水を切田上川原の頭首工(写真5-14-1)から取水し、切田(向切田・川原・下川原)・相坂(写真5-14-2)、六戸町の折茂(写真5-14-3)・犬落瀬を経由して、おいらせ町新敷(にしき)に至る延長17kmの用水路です。大光寺堰は、畑刈川(第3章十和田市を流れる河川「3.4 畑刈川」写真3-3-4-2を参照)、今熊川、および犬落瀬川(写真5-14-4)を水路橋で横断しています。
15.古渕堰
16.下田堰
17.大畑野堰
大畑野堰は、大正9年から大正12年にかけて開削された東西約4kmの用水路で、色内川の水を、奥瀬栃久保の色内橋(第3章十和田市を流れる河川「4.1色内川」を参照)より100m程下流に設置された頭首工(写真5-17-1)から取水します。その受益地は奥瀬栃久保(写真5-17-2)・大畑野(写真5-17-3)・立石(写真5-17-4)・赤石に亘ります。
18.太田川原堰
19.小増沢堰
20.切田川から取水する用水路
20.1 後平堰
20.2 岩船堰
21.藤島川から取水する用水路
21.1 柏木堰
21.2 深沢堰
22.後藤川から取水する用水路
22.1 滝沢堰
22.2 八幡堰
22.3 上川原堰
22.4 川原田堰
22.5 佐野堰
22.6 種原堰
参考文献
十和田市教育委員会 「十和田市 史跡・文化財マップ」 2016
高野春男 「不毛の三本木原台地を美田美畑に変えた先人たちの偉業―人工河川「稲生川」の歴史―」 農業農村工学会誌 76:505-508, 2008
新渡戸記念館だより(第44号) 「稲生川が『疏水百選』に」 2006
嶋 栄吉ら 「稲生川用水に学ぶ三本木開拓の精神と技術」 農業農村工学会誌 77:800-801, 2009
宮川潤孝ら 「三本木幹線用水路急流工の落差を活用した小水力発電」 農業農村工学会誌 84:218-219, 2016
十和田市立新渡戸記念館ボランティアKyosokyodo(共創郷土) 「稲生川の魅力を歩く」 2013
相坂平土地改良区 「相坂平通水50周年記念:開田の苦闘史」 1975
丹治 肇 「奥入瀬川南岸下田堰(藤坂頭首工)―青森県十和田市・おいらせ町―」 農業農村工学会誌 83:149-150, 2015



































































































































